株式会社沢田電設 代表取締役 沢田 雲龍

株式会社沢田電設 代表取締役 沢田 雲龍

方針や進め方を決めて社内のプロジェクトに取り組むとか、そういうことをする必要があります。今それができるのが嬉しいです。これから一気に伸ばしたいんです。
株式会社沢田電設 代表取締役 沢田雲龍

Topics

▶︎ 事業内容

▶︎ 起業のきっかけ・原体験  — 六畳一間風呂なしからのスタート —

▶︎ これからの転換期 — 親方社長から経営者へ —


事業内容を教えてください

基本的に電気工事会社です。あとは不動産会社として、新築の建物の施工をメインとしていますね。不動産のほうは仲介・売主側で、物件を仕入れて再販しています。それからレンタカーと、自動車販売も行っています。

起業のきっかけを教えてください

僕は15歳から職人として働き始めました。自分で電気工事の道に入ったんです。20歳くらいから、この道で一生食べていくんだと思い、個人事業主として独立しました。
そこから1~2年続けていくと仲間がだんだん集まってきて、気づいたら10~20人ほどになっていました。いつの間にか今の規模になったという感覚ですね。

原体験などはありますか

もともと家がすごく貧乏で六畳一間風呂なしに家に住んでいました。僕の世代でもなかなかないですよね。そもそも建物が鶴見に一軒しかなくて、お化け屋敷みたいな雰囲気でした。そこに自分と両親が住んでいて、これが僕のスタート地点でした。
最初の想いとして、小学生ながらに「何かで成功したいな」とずっと感じていたんですよ。超貧乏だったのでそこからじゃないですか。当時は遊戯王カードなどですよね。それを転売するとか、商売気は小学生の頃からかなりありました。
中学生のときには、もう高校に行く気がさらさらなかったです。やんちゃでしたし、他のみんなが高校生になった時でも、「自分で働いたほうがいいな」「学校行く意味なんてないだろう」と思ったので、アルバイトを始めました。友達のおじさんの電気屋さんで働かせてもらっていたんですよね。
そこが電気工事という分野に出会ったきっかけですね。最初は単なるアルバイト感覚でしたし、嫌々やっているところもあったんですが、お金が欲しかったので続けていました。15歳でしたが月30~40万円稼げていましたからね。やっぱりそこからです。もともと貧乏だったのはかなり大きいです。
欲しいものが買えない、他のみんなが数か月に1回新しい洋服を買っているのに、こっちはずっと同じ服。貧乏すぎるので買ってくれなんて言い出せない。しょうがないじゃないですか。
それで子どもながら、自分が大きくなってそれなりに成功したら親とか全部養ってあげようと思っていました。それで最初から勢いが出ましたね。どの業種にも自分みたいな人はいるんじゃないでしょうか。

従業員が増えて大変だったことはありますか

10~20人なら親方社長で成り立つんです。ただそれを超えると1人で見るのは無理になる。正直なところ30~40人くらいのときから会社としてパンクしていました。僕がキャパオーバーしてしまって、売上4億ほどの頃には死んでしまうんじゃないかと感じていました。3か月に1回は胃腸炎になっていましたからね僕。

これからの転換期、どのように描いていますか?

僕を含め経営者にはやらなければならないことがたくさんあります。ですが、今できていないんですよね。社内のことで時間を取られすぎています。
それでもこれから基盤ができて、僕がやっと自由に動けるようになるわけです。そろそろ一気にドンと。コロナがあるので確かなことは言えませんが、この調子でいけば結構できると感じています。
とにかく時間を作らないといけませんね。現場に行く、などはもう僕の仕事ではないので、ふさわしい管理者に管理してもらうつもりです。
僕は方針や進め方を決めて、次にやりたいことに繋がる仕事を取ってくるとか、社内のプロジェクトに取り組むとか、そういうことをする必要がありますよね。今それができるのが嬉しいです。これから一気に伸ばしたいんです。
成果が分かるから面白いということもあります。大変ですけど、従業員も最初から見ていると育っていくのが分かって嬉しい。育てた甲斐があったなと。入社したときはポンコツだったのに、気づいたら現場を丸ごとおさめたり、化け物みたいにできるようになったりするので楽しいです。
会社自体が家族みたいな感じです。


電気設備工場、不動産、レンタカーなど幅広い事業領域を手掛ける。その背景には貧乏であったという原体験がハングリー精神に結びついている。社員を家族のように想い喜びを共にし、誰もがついていきたくなるリーダーシップを発揮していた。